被爆者援護

被爆者聞き撮りプロジェクト2009年2月21日

原爆が風化していくのは嫌。伝えていって欲しい。

岸川さん

三菱電気長崎製作所で事務作業をしていた岸川さん。20歳の時、空襲警報がやみ、事務所に戻り書類を出したときに被爆。工場の防空壕で消防隊と看護婦20人弱と一緒に被爆した人々の看病をした。ひどいやけどやおしりをえぐられるなど、大変な状態の病人に対し、包帯がなくてゲートルを巻いたり、白い薬だけで治療した。「先生、看護婦さんありがとう。お世話になりました」といいながら、次々に亡くなっていく人を近所の広場で焼いた。

8/15の玉音放送をみんなで泣きながら聞いた。灰色の青春だった。戦争のない平和な世の中を。

山口さん

山口いちこさんは、18歳の時挺身隊として三菱重工造船所で6号兵器をつくっていたときに被爆した。防空壕にのがれ、そこで「お母さん」と泣いた。ガラスが飛び交う中、県庁などを通り家に18時頃家に帰り着いた。姉が待っていて、一緒に泣いた。柳の親戚のところに身を寄せた。出島で進駐軍に追い回されて怖かった。

戦争中、後は飢えが一番の苦しみで、アンパンを食べたら死んでも良いと思えるほどだった。若い人を見ると戦争をどう思っているのかと考えてしまう。私の戦争・原爆体験が風化していくことが嫌だ。誰かに伝えていって欲しい。

稲垣さん

14歳の女学生だった稲垣さんのクラスは、学徒動員として三菱で魚雷をつくっており、稲垣さんは事務作業をしていた。米国軍のビラで9日に爆弾が落とされるという米軍のビラ配布の噂を聞いて父親が工場には行くなと止めたが行った。1.2kmの場所で被爆。先生や近所のおじさんに助けられ、家に帰った。皮膚が垂れ下がり腕を下げていられない、顔がはれて水疱ができるなどみんな私が死ぬと思って別れを言いにきた。「今日は助かった」と思う日々。今も病気を抱えている。

5年前アメリカに行けて有意義だった。米国の人々は何も知らない。日本では修学旅行に広島、長崎に行く習慣がある良いことだし、続けて欲しい。

山口さん

山口きぬえさんは、長崎の最南端にいる祖父から市街にでるよう手紙があり、9日の前に母親を残し、27km離れたところに疎開した。9日昼前に新型爆弾が落とされてと聞き、2日後母を捜しに爆心地付近に入り、入市被爆した。実家の付近は何もなかったが、石垣を見つけ自分の家を探し当て、茶の間だったところに母の白骨死体を見つけた。「母は家にいて自分が見つけるのを待っていたんだ」と思った。呆然として涙は出なかったが、家に帰りお骨を収めたときに、泣いた。

原爆が使われるところを絶対に見たくないし、他の人にも見せたくない。忘れようとしても忘れられない。私の目が黒いうちは、核兵器をなくせ、戦争をなくせと言い続けたい。

村山さん

10歳の時原爆を体験した村山さん。

空襲警報の解除で、防空壕から出たときにヒコーキとピカッという光りを見た。爆風で家の中がぐちゃぐちゃになった。県庁に向かうが、がれきなどで足の踏み場もなかった。死体をよけて薪をひろいに行った。感覚が麻痺しており、死んだ人は怖くなかった。

今回、港区での開催にあたり、40名の被爆者に参加の呼びかけを行い、体調が思わしくなく参加できない被爆者がいることも、被爆者団体から報告されました。
参加者からは「地元に住む被爆者の話を聞くのは初めて。核兵器が地球からゼロになる日のために、若者がききプロに参加できるように呼びかけたい」との思いが出されました。
◎被爆者の思いを受け継ぐためにも、ききプロの開催を地元で行いませんか?連絡待っています!
◎次回は、3月21日(土)瀬戸で行います。

2009/02/21 被爆者聞き撮りプロジェクト - ききプロ   愛知県原水協事務局
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