被爆者援護

被爆者聞き撮りプロジェクト - ききプロ

被爆者聞き撮りプロジェクト2009年3月21日

「原爆のおそろしきこと 後の世に語り伝えん あの日のことを」

<水野さんが詠んだ川柳『原爆の詩』より>

被爆者体験聞き撮りプロジェクト(ききプロ)は、2009年3月21日(土)に四回目のききプロを、瀬戸市の陶芸家である水野錦三さんのご自宅で行いました。

3名の被爆者を含む18名が参加し、1名の被爆者の体験談を聞きました。

今回は、peace9loveや高校生平和ゼミナールからの参加もあり、熱気にあふれた、ききプロとなりました。

広島で被爆した水野さん

広島で被爆した水野錦三さんは、当時16歳で三菱電機に配属になり、1945年3月20日の名古屋空襲のため、空襲がなかった広島の工場に転勤になった。工場は爆心地から離れていたが、原爆投下時には、閃光のような光りが20~30秒光り、爆発と爆風により工場の下敷きになった。人や顔がふくれた人、服の白い部分しかまとっていない人などやけどを負った人が市外へ逃げてきた。その後、救護班に組織されトラックで市内に入り、救護活動をした。「水をくれ」「助けて」と叫ぶ人々に初めはゾッとした。1週間ほど救護していたが、ほとんどの人が亡くなっていった。

8月6日に建物疎開で市内に入っていった工場の仲間が、家の下敷きになっただけで元気な姿で工場に戻り、無事を喜んでいたが、1週間後、髪の毛が抜け始め、体調が悪くなり、結局亡くなってしまった。次の日は自分が市内に入る順番だった。自分は運が良かったのだと思っている。

20年前、脳梗塞で倒れたり、耳鳴りはずっと続いている。精神状態がおかしくなるほど、疲れたらひどくなる。結婚ができなくなるといった偏見があったため、広島の話はしたくなかったが、原爆の叫びを伝えていきたいと思い、話すようになった。日本は9条を振りかざして世界を歩けば良いと思う。

  • 「約束はつい先日のことなりし 今日は訃報のしらせなりけり」
  • (↑一緒に被爆体験を話しに行こうと約束していた被爆者の仲間が、話す当日に亡くなった)
  • 「被爆者として生きている この不思議」
  • 「あこがれの 80年の年迎え」
  • 「いい人に 出会えて人は 人になる」
  • (↑水野さんの人生訓)   『原爆の詩』より

水野さんのお友達の三浦さんからも、戦時中の軍事工場での空襲や爆撃の話をしていただきました。原爆を体験された水野さんの“憲法9条を世界に広げなければ”という言葉には、重い意味が感じられ、その思いを私たちがどう受け継ぐのか・・今後も取り組みながら、考えていくべき課題だと改めて感じました。
今回の参加者から、自分の地域でも聞きプロを!との声があがっています。

◎被爆者の思いを受け継ぐためにも、ききプロの開催を地元で行いませんか?
また、ききプロメンバーも随時募集中です。連絡待っています!

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2009/03/21 被爆者聞き撮りプロジェクト - ききプロ   愛知県原水協事務局

被爆者聞き撮りプロジェクト2009年2月21日

原爆が風化していくのは嫌。伝えていって欲しい。

岸川さん

三菱電気長崎製作所で事務作業をしていた岸川さん。20歳の時、空襲警報がやみ、事務所に戻り書類を出したときに被爆。工場の防空壕で消防隊と看護婦20人弱と一緒に被爆した人々の看病をした。ひどいやけどやおしりをえぐられるなど、大変な状態の病人に対し、包帯がなくてゲートルを巻いたり、白い薬だけで治療した。「先生、看護婦さんありがとう。お世話になりました」といいながら、次々に亡くなっていく人を近所の広場で焼いた。

8/15の玉音放送をみんなで泣きながら聞いた。灰色の青春だった。戦争のない平和な世の中を。

山口さん

山口いちこさんは、18歳の時挺身隊として三菱重工造船所で6号兵器をつくっていたときに被爆した。防空壕にのがれ、そこで「お母さん」と泣いた。ガラスが飛び交う中、県庁などを通り家に18時頃家に帰り着いた。姉が待っていて、一緒に泣いた。柳の親戚のところに身を寄せた。出島で進駐軍に追い回されて怖かった。

戦争中、後は飢えが一番の苦しみで、アンパンを食べたら死んでも良いと思えるほどだった。若い人を見ると戦争をどう思っているのかと考えてしまう。私の戦争・原爆体験が風化していくことが嫌だ。誰かに伝えていって欲しい。

稲垣さん

14歳の女学生だった稲垣さんのクラスは、学徒動員として三菱で魚雷をつくっており、稲垣さんは事務作業をしていた。米国軍のビラで9日に爆弾が落とされるという米軍のビラ配布の噂を聞いて父親が工場には行くなと止めたが行った。1.2kmの場所で被爆。先生や近所のおじさんに助けられ、家に帰った。皮膚が垂れ下がり腕を下げていられない、顔がはれて水疱ができるなどみんな私が死ぬと思って別れを言いにきた。「今日は助かった」と思う日々。今も病気を抱えている。

5年前アメリカに行けて有意義だった。米国の人々は何も知らない。日本では修学旅行に広島、長崎に行く習慣がある良いことだし、続けて欲しい。

山口さん

山口きぬえさんは、長崎の最南端にいる祖父から市街にでるよう手紙があり、9日の前に母親を残し、27km離れたところに疎開した。9日昼前に新型爆弾が落とされてと聞き、2日後母を捜しに爆心地付近に入り、入市被爆した。実家の付近は何もなかったが、石垣を見つけ自分の家を探し当て、茶の間だったところに母の白骨死体を見つけた。「母は家にいて自分が見つけるのを待っていたんだ」と思った。呆然として涙は出なかったが、家に帰りお骨を収めたときに、泣いた。

原爆が使われるところを絶対に見たくないし、他の人にも見せたくない。忘れようとしても忘れられない。私の目が黒いうちは、核兵器をなくせ、戦争をなくせと言い続けたい。

村山さん

10歳の時原爆を体験した村山さん。

空襲警報の解除で、防空壕から出たときにヒコーキとピカッという光りを見た。爆風で家の中がぐちゃぐちゃになった。県庁に向かうが、がれきなどで足の踏み場もなかった。死体をよけて薪をひろいに行った。感覚が麻痺しており、死んだ人は怖くなかった。

今回、港区での開催にあたり、40名の被爆者に参加の呼びかけを行い、体調が思わしくなく参加できない被爆者がいることも、被爆者団体から報告されました。
参加者からは「地元に住む被爆者の話を聞くのは初めて。核兵器が地球からゼロになる日のために、若者がききプロに参加できるように呼びかけたい」との思いが出されました。
◎被爆者の思いを受け継ぐためにも、ききプロの開催を地元で行いませんか?連絡待っています!
◎次回は、3月21日(土)瀬戸で行います。

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2009/02/21 被爆者聞き撮りプロジェクト - ききプロ   愛知県原水協事務局

被爆者聞き撮りプロジェクト2008年9月6日

“核兵器が無くなるまでは死ねない。”被爆者の思いを受け継ぐために

広島で被爆した前田さん

広島で14歳の時に被爆した前田さんは、爆心地から2kmの学徒動員先の工場で被爆。防空壕に逃げ込んだが人の下敷きになると思って外に出た。瓦があたって頭から血が出ている友人や火傷をした友人から「どうなっている?」と尋ねられてもひどすぎて答えられなかった。

終戦後、米軍が被爆実態の調査のためにつくったABCCという施設に私は行かなかったが、行った友人は「モルモットのようにされた。もう行かない」と言っていた。

2人出産したが一人は未熟児、一人は早産。今は元気だが、出産するまで気がきではなかった。

長崎で被爆した石田さん

石田さんは、輸送船乗船中、長崎に停泊してるときに被爆。すごい光と爆音、炎の中に顔を突っ込んだような熱さに見舞われた。鼻から右の顔面が火傷し、ご飯も食べられない状態になった。軍医が乗っておらず、上司に相談しても「海の水でもつけてこい」と言われた。

当時は20歳以上の人生設計はまったく出来ないような教育だった。とにかく軍に入って天皇を救うのが役割だと思っていた。 報道で放射能をあびたら子どもができないと言われていて、妻に被爆者と知られたときは大変だったし、悲しかった。

広島で被爆した茶納さん

15歳の女学生だった茶納さんは、広島電鉄で勤労報国隊として勤務中に被爆した。爆風で飛ばされた扉の下敷きになって気を失った。助け出されて、事務所からやっとの思いで逃げた。顔に50個ほどガラスが刺さり、お化けのような顔で、錯乱状態で笑いながら(笑いたくはなかったが泣きながら)友達の助けを借りて逃げた。その友達のほうが先に亡くなってしまった。

結婚して子どもが2人生まれ、12くらい病気をしたが、今が一番幸せ。100歳まで生きなければ、死んでいった友達に申し訳ないし、核兵器を無くすまでは死ねない。

広島で被爆した荒川さん

広島に原爆が落とされた時に荒川さんは、中学5年で呉の工場で働かされていた。家は平和公園の近くで、父、母、妹、弟、弟の6人家族だった。「家に帰りたい」と友人と二人電車で市内へ。家のあたりは一面やけ野原。母と下の弟とは再会できたものの、父、妹、弟は亡くなったと聞いた。お骨を捜したが、見つけることはできなかった。

当時のことは、思い出したくないし、あまり話したくもない。

長崎で被爆した黒板さん

学徒動員で長崎の三菱造船所で被爆した黒板さんは当時16歳。突然ピカッと(雷が何個も落ちたような)青白い光る壁が迫ってきて「もう駄目だ」と思った瞬間、光の壁が体を突き抜けていった。“広島の新型爆弾”の話は聞いており、爆心地から2km付近は何もなくなっていた。

30歳で被爆者の妻と結婚。2人目の子どもが左足に腫瘍ができ、大腿部から切断せざるをえなかった。子どもには被爆について話していないがわかっていると思う。

長崎で被爆した萬屋さん

4.5kmの家の中で被爆した萬屋さんは、長崎市内から避難してくる人々を目の当たりにした。当時12歳。家の向かいの空き地にバラック(仮設住宅)が建ち、被爆して全身水ぶくれの小学生が2人寝ていた。水をあげられなかったので、団扇で扇ぐのが精一杯だった。“日本はどうなるのだ”と思った。

白血球が通常の約3倍あるが、寝込んだりしないように今も7kmほど歩いている。亡くなった人のためにも、世界平和と核兵器廃絶を訴え続けたい。

広島で被爆した田村さん

田村さんは広島の工業専門学生(16歳)で、数学の授業中に被爆。座っていた場所が良かったのか怪我もなく、実家へ帰るため6日夜広島を電車で出発した。

すぐに広島を離れたこともあり、被爆者としての意識がなく、被爆者手帳交付時、手帳をもらわなかった。被爆と結び付けたくない思いもあったかも。しかし、人に自分の言葉で体験を話すようになったことと、無理解の人に出会うたびに、“被爆者”として運動することの重要性を実感する。

豊橋在住の被爆者は100名。10名ほどが毎年亡くなられているそうです。また、豊睦会で実質活動できる被爆者も10名ほどとお聞きしました。“被爆体験を直接聞くことのできる最後の世代”といことを実感しました。豊橋の青年や高校生も参加があった今回のききプロを広げ、また地域に根付くような運動にしていくために、今後も取り組みをすすめていきます。

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2008/09/06 被爆者聞き撮りプロジェクト - ききプロ   愛知県原水協事務局

被爆者聞き撮りプロジェクト2008年7月5日

被爆者体験聞き取りプロジェクト(ききプロ)は、7月5日(土)に一回目のききプロを、樹齢300年のしだれ桜が圧巻な園明寺で行いました。

犬山市にお住まいで、広島で被爆された安藤さんと石村さんからの被爆体験を、青年、支援者など19人で聞きました。

“戦争は絶対だめ。話し合いで解決を”被爆者が語った思い

被爆者体験聞き取りプロジェクト(ききプロ)は、7月5日(土)に一回目のききプロを、樹齢300年のしだれ桜が圧巻な園明寺で行いました。

犬山市にお住まいで、広島で被爆された安藤さんと石村さんからの被爆体験を、青年、支援者など19人で聞きました。

安藤さん

安藤さんは、当時25歳。爆心地から1.5㎞離れた自宅で被爆。爆風で梁の下敷きになり、顔と後頭部半分身体に怪我を負い、呉の軍病院へ運ばれた。その病院で見た光景が生き地獄として頭に焼き付いている。一番残っているのは、教師の奥さんが大変美人だったのに、原爆で誰だか判らない顔になって亡くなり、「きれいだった顔が思い出せない」と泣いていたこと。

ピアノが好きで弾いていたが、原爆で焼けてしまい、投下後やっと学校のピアノを見つけ弾くと、周りの人が聞きに来た。このような時でも、音楽を人々が求めているということがわかった。

現在88歳で、音楽教師を30年続けてきた。病気らしい病気にはかからず、元気だが、亡くした妹を思い出してしまうため広島にはいまだに行けない。

いまの人々に伝えたいことは、戦争は絶対にいけないということ。平凡だが、これが一番大事だし欠くことができないことだと思う。

 

石村さん

石村さんは、当時10歳。たまたま広島に帰ってきていて、市内からバスで1時間半ほど離れた学校の朝礼中に被爆した。ピカッと光り、ドカーンという音が聞こえ爆弾が落ちたと思って防空壕へ入ったが、何もなかった。昼頃、やけどして皮膚が垂れ下がっている人が市内から歩いてくるのを見た。父親は竹の歯ブラシを買いに市内に向かい、広島駅からすぐの停留所で被爆し、父の兄の家で10日に亡くなったと聞いた。亡くなったことも知らなかった。

被爆後、一番大変だったのは、突然父を亡くしお金がなかったこと。学びたい思いから、高校、大学に進学したが、お金がなくて、奨学金を借り働きながら通った。

日本政府や青年に伝えたいことは、問題は、話し合いで解決することが争いをなくす唯一の方法だということ。戦争は、あっという間に起こってしまうから。

参加者からの質疑応答や被爆後の人生をお聞きする中で、被爆者の思いに少しでも近づけたのではないかと思います。核兵器をなくし、平和な未来を創るため、核兵器の恐ろしさと平和の大切さを多くの人々や後世に伝えようと立ち上げた『ききプロ』を、今後も続けていきます。

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2008/07/05 被爆者聞き撮りプロジェクト - ききプロ   愛知県原水協事務局

被爆体験聞き撮りプロジェクト(ききプロ)へのカンパのお願い

被爆体験聞き撮りプロジェクト(ききプロ)へのカンパのお願い

戦後63年が過ぎ、愛友会の被爆者の平均年齢も75歳になりました。被爆者の方々も、次々と亡くなられています。いま、被爆者の体験を残さなければ、聞くことができなくなってしまいます。

被爆国日本の青年たちが、国際的に担うべき運動として「被爆体験の継承・発信」があります。若者に、人類史の負の遺産とも言える被爆体験を伝えていくために、このプロジェクトを立ち上げました。

月に一回程度、被爆体験を聞く会を被爆者の住む地域において記録していきます。県内、在住の約3000人の被爆者の方々を対象に行っていくことを目標とします。また、原水爆禁止世界大会、10月の軍縮週間、3・1ビキニデーに向けての学習としても位置づけ行うことができればと思います。

しかしながら、ビデオやカメラ、記録媒体などの機材の整備も行なう必要があり、機材整備などだけでも、当面、約100万の費用が必要になり、さらに行動する際の経費も相当程度かかると思われます。

プロジェクト成功のためのカンパを多くの方にお願いをしたいと思います。

団体・連絡先
原水爆禁止愛知県協議会052-932-3219
愛知県平和委員会青年学生部 052-931-0070
<郵便振込>☆ききプロ募金と明記ください。口座番号 00850-8-49385
加入者名 原水爆禁止愛知県協議会

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2008/06/01 被爆者聞き撮りプロジェクト - ききプロ   愛知県原水協事務局