被爆者援護

被爆者聞き撮りプロジェクト2008年9月6日

“核兵器が無くなるまでは死ねない。”被爆者の思いを受け継ぐために

広島で被爆した前田さん

広島で14歳の時に被爆した前田さんは、爆心地から2kmの学徒動員先の工場で被爆。防空壕に逃げ込んだが人の下敷きになると思って外に出た。瓦があたって頭から血が出ている友人や火傷をした友人から「どうなっている?」と尋ねられてもひどすぎて答えられなかった。

終戦後、米軍が被爆実態の調査のためにつくったABCCという施設に私は行かなかったが、行った友人は「モルモットのようにされた。もう行かない」と言っていた。

2人出産したが一人は未熟児、一人は早産。今は元気だが、出産するまで気がきではなかった。

長崎で被爆した石田さん

石田さんは、輸送船乗船中、長崎に停泊してるときに被爆。すごい光と爆音、炎の中に顔を突っ込んだような熱さに見舞われた。鼻から右の顔面が火傷し、ご飯も食べられない状態になった。軍医が乗っておらず、上司に相談しても「海の水でもつけてこい」と言われた。

当時は20歳以上の人生設計はまったく出来ないような教育だった。とにかく軍に入って天皇を救うのが役割だと思っていた。 報道で放射能をあびたら子どもができないと言われていて、妻に被爆者と知られたときは大変だったし、悲しかった。

広島で被爆した茶納さん

15歳の女学生だった茶納さんは、広島電鉄で勤労報国隊として勤務中に被爆した。爆風で飛ばされた扉の下敷きになって気を失った。助け出されて、事務所からやっとの思いで逃げた。顔に50個ほどガラスが刺さり、お化けのような顔で、錯乱状態で笑いながら(笑いたくはなかったが泣きながら)友達の助けを借りて逃げた。その友達のほうが先に亡くなってしまった。

結婚して子どもが2人生まれ、12くらい病気をしたが、今が一番幸せ。100歳まで生きなければ、死んでいった友達に申し訳ないし、核兵器を無くすまでは死ねない。

広島で被爆した荒川さん

広島に原爆が落とされた時に荒川さんは、中学5年で呉の工場で働かされていた。家は平和公園の近くで、父、母、妹、弟、弟の6人家族だった。「家に帰りたい」と友人と二人電車で市内へ。家のあたりは一面やけ野原。母と下の弟とは再会できたものの、父、妹、弟は亡くなったと聞いた。お骨を捜したが、見つけることはできなかった。

当時のことは、思い出したくないし、あまり話したくもない。

長崎で被爆した黒板さん

学徒動員で長崎の三菱造船所で被爆した黒板さんは当時16歳。突然ピカッと(雷が何個も落ちたような)青白い光る壁が迫ってきて「もう駄目だ」と思った瞬間、光の壁が体を突き抜けていった。“広島の新型爆弾”の話は聞いており、爆心地から2km付近は何もなくなっていた。

30歳で被爆者の妻と結婚。2人目の子どもが左足に腫瘍ができ、大腿部から切断せざるをえなかった。子どもには被爆について話していないがわかっていると思う。

長崎で被爆した萬屋さん

4.5kmの家の中で被爆した萬屋さんは、長崎市内から避難してくる人々を目の当たりにした。当時12歳。家の向かいの空き地にバラック(仮設住宅)が建ち、被爆して全身水ぶくれの小学生が2人寝ていた。水をあげられなかったので、団扇で扇ぐのが精一杯だった。“日本はどうなるのだ”と思った。

白血球が通常の約3倍あるが、寝込んだりしないように今も7kmほど歩いている。亡くなった人のためにも、世界平和と核兵器廃絶を訴え続けたい。

広島で被爆した田村さん

田村さんは広島の工業専門学生(16歳)で、数学の授業中に被爆。座っていた場所が良かったのか怪我もなく、実家へ帰るため6日夜広島を電車で出発した。

すぐに広島を離れたこともあり、被爆者としての意識がなく、被爆者手帳交付時、手帳をもらわなかった。被爆と結び付けたくない思いもあったかも。しかし、人に自分の言葉で体験を話すようになったことと、無理解の人に出会うたびに、“被爆者”として運動することの重要性を実感する。

豊橋在住の被爆者は100名。10名ほどが毎年亡くなられているそうです。また、豊睦会で実質活動できる被爆者も10名ほどとお聞きしました。“被爆体験を直接聞くことのできる最後の世代”といことを実感しました。豊橋の青年や高校生も参加があった今回のききプロを広げ、また地域に根付くような運動にしていくために、今後も取り組みをすすめていきます。

2008/09/06 被爆者聞き撮りプロジェクト - ききプロ   愛知県原水協事務局
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